ブログ-ファームと愉快な仲間たち

Vo.02 平川敦雄の歴史「道のりと思想」
第一章 修業時代~東京からフランスへ~

初心、プロのソムリエを目指して
今から30年前、愛知県から上京したばかりの私は、都心のレストランでアルバイトを始めたのがきっかけでワインの世界に興味を持ちました。小さい頃から自然とのふれあいが大好きでしたので、大学では農学を専攻しましたが、飲食業務はとても魅力的で、レストラン業に自分の専門性を見出そうと考えるようになりました。19歳の時に初めてソムリエの仕事に就いたのち、フランスで一流のソムリエを目指そうと決心しました。リュックサック一つを背に新潟港を出航し、ウラジオストックから鉄道を乗り継いでユーラシア大陸を横断、フランス・ロレーヌ地方で生活を始めたのが1995年夏、22歳の時でした。

アルザスのブドウ園でのテント生活を経て
フランス語を全く知らずに渡航してきた自分を待ち構えていたのは、コミュニケーションができない外国人という厳しい現実でした。1年目はフランスの生活に全く馴染めず、会話能力がないため接客業に携わることはできませんでした。そんな自分にできたのはドイツ、イタリア、東欧をはじめあちこちのブドウ園を野宿で見て歩くことでした。2年目、ブルゴーニュでの収穫後に、アルザスのブドウ園で仕事を始めましたが、部屋代を支払えるお金がなく、畑の脇にテントを構えて生活をしました。焚き火で食事を作り、ろうそくの明かりで勉強をし、温めたお湯をペットボトルに詰め込んで抱きしめて眠る毎日でした。その頃、フランス各地方のワイナリーに100通近い就職願いを出しましたが、ほとんどがお返事すらなく、頂けてもお断りの内容でした。数少ない良いお返事の中に、ポムロールの銘酒シャトー・ラフルールのジャック・ギノドー氏からの手紙があり、その後、研修生として採用されました。ギノドー氏は会話能力が不十分な私に、栽培・醸造技術のあらゆる知識やノウハウを熱心に授けてくれました。そして「頑張れば、フランスでエノローグ(国家醸造士)になれる」と励ましてもくれました。その言葉に刺激され、フランスで認められた醸造家になろうと決心しました。

「人生考え直せ」の言葉に打ちのめされる
3年間の滞在費が尽きた1998年、日本に帰国しました。当初フランスで一流のソムリエになろうとして渡仏したにも関わらず、実現できたのは専らワイン造りの実践だけでした。そして、“ソムリエと醸造家を両立できる人になること” を目標として描くようになりました。日本の文部科学省認定の技術士(農業)の1次試験を受験して合格しましたが、ある日本のワイン業界の大先輩からの「フランスで働いていたと言ったって、収穫ぐらい誰でもできる。エノローグになろうなんて甘くない。人生考え直せ。」という言葉に打ちのめされ、僅かな手持ち資金で再渡仏に踏切りました。もう日本には戻ってこない覚悟で、日本人に会うことがないラングドック地方の田舎での生活を選択しました。そして南仏のパイオニアワインとして世界的に名高いマス・ドゥ・ドウマス・ガサックのエメ・ギベール氏との出会いがあり、栽培者として3年間を過ごしました。人脈の豊富なギベール氏は、私がエノローグになるために常に優しく後押しをしてくれました。

最難関アグロモンペリエに日本人として初めて入学
その推薦先が、マス・ドゥ・ドウマス・ガサックから車で1時間程の距離にあるフランス農水省管轄の国立技術士養成機関、ENSAアグロモンペリエ(現SupAgroモンペリエ)でした。アグロモンペリエはフランスの農学分野で最難関とされるグランゼコールであり、その当時は、フランス農水省認定技術士(農学)、醸造士(エノローグ)、ENSA認定マスター・オブ・サイエンス(栽培−醸造学)の3免状を取得できるフランス唯一の教育機関でした。グランゼコールは大学とは別に存在しているフランス独自の教育機関であり、国が優秀な専門的人材を養成する目的で、少人数にて高度な専門教育と研究開発を行っています。ブドウ栽培−ワイン醸造科は44人限定で、私は初めての日本人でした。コート・デュ・ローヌの名門ポール・ジャブレ・エネ社で醸造後、入学許可が得られて厳しい学業生活が始まりました。

学費を稼ぐために箱根で働く
自力で高い学費を支払いながら学業を続けるためには、レストラン業との両立を実現するしかありませんでした。そこで夏の1ヶ月半のみ日本に帰国し、毎年、箱根のホテル(小田急山のホテル、箱根ハイランドホテル)でソムリエとして働きました。そして、飲食業で得た給与の全てをアグロモンペリエの授業料に注ぎ込みました。毎日の睡眠時間が3時間のみで試験勉強の日々、ブドウ栽培学では世界一の研究機関と言われているアグロモンペリエの授業は全てが難題・難問の連続でした。毎週襲ってくる試験では、外国人だからという容赦は一切なく、常に実力を試されました。膨大な参考資料の中から自分流でレジュメをつくり、50回以上読んでから試験に挑みようになりました。このレジュメの多くは今でも私の手元にあり、読み返して暗記を続けています。

念願のエノローグの国家資格を取得
そして約50の試験科目全てに合格し、フランス農水省から2003年、エノローグ国家免状(DNO)を授与されました。31歳の時でした。また厳しい教育の現場で学んだこと以上に、醸造士免状過程の一環としてシャトー・マルゴーの醸造に参加できたことは貴重な経験となりました。更に、技術士免状過程ではボルドー大学醸造研究所にて芳香性化学の世界的権威である富永敬俊先生から、アロマの研究について直接にご指導を授かりました。同級生の多くは世界各地の銘譲ワイナリーの醸造責任者として、また経営者として活躍しています。グランゼコールの専門課程まで辿り着いた友とアグロモンペリエの強力な交流網の中にいることは、今の私の大切な財産となっています。

偉大な富永敬俊先生が目標
がむしゃらに頑張るしかなかった26歳の私に「人生考え直せ」という言葉はあまりにも重たいものでした。日本のワイン業界と一切関わらないという覚悟で向かった南仏での孤独な生活が、やがてアグロモンペリエに進学するきっかけとなり、人生の転機となったことには間違いありません。この言葉がなければ自分の人生は変わらなかったですし、現在の自分には到達していなかったでしょう。今となっては、全く逆の意味で重たい言葉となっています。研究時代にお世話になった富永先生は、私に「サイエンスは思った以上に簡単だ」とおっしゃいました。外国の地で世界的な論文を発表し続けた先生の苦労は計り知れないぐらい大きく、「簡単だ」とおっしゃった偉大な富永先生の背中を今でも目標にしています。科学的知識を最大限に持つことはソムリエとしても、醸造家としても同じことです。実践知識のバックグラウンドの中に理論知識を組み込み、感覚を磨き、感性を高めてゆくことが大切だと思います。

こうして学業と研究生活の修行を経て、毎年夏になると日本でソムリエとして働き、秋からはフランスで醸造家として働くという独自のサイクルが生まれました。そして、醸造家としても、ソムリエとしても高い専門性を持ち、異国の地で生きてゆくにはどうすべきか、そのフィールドを日本とフランス以外の地にも求めてゆくことにしました。

投稿日:12:25 PM | カテゴリー: ストーリー