ブログ-ファームと愉快な仲間たち

Vo.04 平川敦雄の歴史「道のりと思想」
第二章 修業時代 〜南アフリカからブルゴーニュへ〜

エノローグの第一歩、プロヴァンスでのワインつくり
フランス国立の技術士養成機関であるENSAアグロモンペリエ(現SupAgroモンペリエ)にてエノローグ(DNO)と技術士の資格を取得し、ボルドー大学ワイン醸造研究所にて「地中海性気候下の赤ワインに特有な“スパイシーさ”の原因となる芳香成分の特定と畑周囲の植生との関係」という研究テーマを終えた直後の私の目標は、専ら南仏の銘譲ワインの現場で働くことでした。以前、プロヴァンス地方のバンドールにあるシャトー・プラドー1966年と1967年を味わったことがあり、その時の印象がまるでポイヤックの銘酒を味わっているかのような感動で忘れられず、シリル・ポルタリス氏に直接お便りを書きました。そして2003年の収穫期に醸造家として採用されました。樹齢50年〜80年のムールヴェードルを梗ごと仕込み、その後、大きな古樽(フードル)で長期熟成させて出来上がるワインは、フランスで最も熟成能力を有する銘酒のひとつです。30haを有するブドウ園の醸造をほぼひとりで任されることになり、伝統製法を重んじる醸造所で過ごしたこの半年間が、私のエノローグとしての第一歩となりました。

南仏での醸造+歴史に残る猛暑の年
2003年はフランスにおける歴史的な“猛暑の年”で知られています。土壌の水分ストレスが極端に強く、ブドウ樹の成長がストップして本来の糖度が得られていない房や、ブドウ果皮が正常に完熟しないまま干しぶどうになったような状態のものまであり、果実の不均一性を味わいのバランスに変えてゆけるよう、丹念に仕込まねばなりませんでした。最終的には梗からの抽出も程よく、個性的なワインとなりました。これから30年後、31歳の自分が醸造したワインを味わえることを、今から楽しみにしています。地中海地方の豊かな食材、温暖な気候、美しい街並み、温かい家族のおもてなしに囲まれた南仏プロヴァンスでの生活を思い出すと、そこにはこれまでの私の人生の中で、最もゆっくりとした時間が流れています。そして、その年のワイン醸造が終了後、更なる経験の蓄積を求めて、南アフリカへと出発しました。

南アフリカのワインつくりに飛び込んで
伝統産地から新興産地へー 世界のワイン地図が新しい栽培適地の台頭で大きく変わりつつある今、フランスのような伝統産地のみでの経験ではなく、南半球のワインつくりを通じて専門知識や技術を磨きたいという気持ちがあり、実現に向けて動きました。ちょうどシャトー・マルゴーでの修行時代にご一緒した南アフリカ出身の醸造家からの誘いがあり、2004年の醸造期に、ステレンボッシュのリュステンベルグワイナリーに採用されました。南アフリカは南仏プロヴァンスと同じ地中海性気候を有しており、アフリカ大陸で唯一明確な四季がある国です。リュステンベルグはエステートの設立が1682年という、この地きっての歴史のあるワイナリーで、サイモンスベルグという雄大な姿の山の裾野に美しい畑を有しています。醸造所では自社農園以外のブドウも合わせて約1000トン受け入れていますが、フランスではありえなかった4ヶ月間に亘る長い醸造期間を経験しました。品種としてはシラーやカベルネ・ソーヴィニョン、メルローといったフランス系品種の潜在能力が知られていますが、より標高のある土地での栽培を目指して産地が拡大しており、海由来の爽やかな気候を有している場所では高品質の白ワインも生まれてきています。

時給40円で働く日々、この世の果て
南アフリカではヨーロッパの伝統産地から優秀な技術者が来ていることで産地力向上が目覚ましく、アグロモンペリエ出身のフランス人醸造家も活躍していました。栽培地の拡大を求めて開墾が進められ、醸造所では選果台に20名以上の作業員を配置して完璧な腐敗果除去を行うなど、安くて豊富な労働者の存在が南アフリカ産ワインの品質を確実に押し上げていました。2003年当時、コカコーラ1.5ℓは300円もするのに、黒人従業員の時給が20円、私の時給はその倍の40円でした。そして月400時間という、労働基準が存在しない壮絶な労働環境の中で戦うしかありませんでした。やがて荒涼とした不毛地帯を超えて辿り着くこの世の果ての様な場所で、立ち上がったばかりの新規ワイナリーでの醸造コンサルタント業務の依頼まで来て、毎日朝から深夜まで、休みなしのワイン醸造が続きました。事業開始直後の厳しさを実感すると同時に、文明から離れた極限の地でワインつくりができる喜びを噛み締めて生きました。そうこうしている間に、南アフリカでの滞在資金も尽きました。

再度、夢に向かって
夏の期間は再度、箱根のホテル(小田急山のホテル、箱根ハイランドホテル)に戻ってソムリエ業務を行い、収入を得ましたが、この年、2003年の秋からは、初心である“フランスで一流のソムリエになること”を目指しました。南アフリカの大自然に抱かれたワインつくりからブルゴーニュへの移動は、過去に後戻りしたかのようであり、フランスのワイン文化が有する伝統や歴史の素晴らしさを、これまで以上に重みをもって受け止めました。また同時に、ソムリエという職業はフランスのワイン文化の形成になくてはならないという強い思いを感じました。外国人の私がフランスで認められたソムリエになるためには、知識や技量を保証してくれる免状の取得が必修と考え、フランスソムリエ協会(UDSF)からアドバイスを頂いてCFPPAボーヌのソムリエコースを目指すことになりました。

ブルベ・プロフェショナル・ドゥ・ソムリエを目指して
CFPPAはフランスの国家認定資格であるブルベ・プロフェショナル・ドゥ・ソムリエを1年で取得できるフランス唯一の教育機関であり、当時はソムリエ協会の会長を9年間も努められたジョルジュ・ペルチュイゼ氏が担当教師を務めていました。濃密なカリキュラムで、地理学、栽培学、醸造学、経営学…といった諸々の教科の試験を全てパスしなければならず、外国人にはかなりハードな授業です。アグロモンペリエでエノローグの専門過程を経ていた私は、常に高得点を目指して挑みました。そして2005年に、首席にて資格取得となりました。ブルゴーニュソムリエ協会認定のソムリエとなり、ジャルダン・デ・センスやランスブールといった、当時ミシュラン3つ星のレストランでソムリエとして働きました。フランスでのソムリエ呼称認定を目指す日本人がもっと出てきてほしいと願っています。

ピュリニー・モンラッシェにて
その頃に出会ったのが、ピュリニー・モンラッシェ村のアンヌ・クロード・ルフレーヴ氏でした。世界のワイン醸造家の多くが、「ピュリニーの様なシャルドネをつくりたい」と言いますが、ドメーヌ・ルフレーヴは、ピュリニーの心臓部に多くの区画を有し、産地個性が非常に明確なワインを生み出しています。アンヌ・クロードは日本人である私に対していつも家族の一員のように接してくれて、2005年から翌年にかけてドメーヌ・ルフレーヴの農場長、醸造長の隣で働きました。今でも共に過ごした時間は人生の宝物です。その後の私の農業への考え方は、この期間に得た思想やインスピレーションによって多大な影響を受けています。そして夜や週末は掛け持ちにてレストランで働きました。フランスでソムリエになることを目指してきてから10年が経ってようやく、フランスで栽培家としても、醸造家としても、ソムリエとしても働くという夢を実現することになりました。

投稿日:7:23 AM | カテゴリー: ストーリー