ブログ-ファームと愉快な仲間たち

Vo.06 平川敦雄の歴史「道のりと思想」
第四章 夢を求めて 〜フランスから北海道へ〜

フランスからソムリエになるために帰国
フランスでがむしゃらに生きた12年間が過ぎ、2008年、日本に帰国する時が訪れました。テント生活とろうそくの明かりで勉強していた22歳、南仏のブドウ園でヴィニュロンとして働いた26歳、学業と研究に邁進してアグロモンペリエでワイン醸造士の国家資格を取得した31歳、そして更新ヴィザが発給されず、海外でのワインつくりの夢が終わりを迎えた35歳。ソムリエとして完全帰国という大きな転機を迎えた時に、この12年間の修業時代にフランスの銘譲ワイナリーで学んだこと全ては、優秀なソムリエになるための予備知識と考えることにしました。富永先生が生前、私に最後に仰った「いつか必ず日本に帰って日本のワイン業界に貢献できる人になりなさい。それが貴方の使命だ。」という言葉を想い、これまで私が海外生活で生産者として得た経験や言語の知識を活かし、日本のワイン文化の発展のために関わることができる職場を探しました。私は東京でワインに出会い、飲食業からワインの道を志しました。そのために、まずは東京の美食店への就職を考えたのですが、最終的にはずっと憧れであったミシェル・ブラストーヤジャポンで働くことを夢見て、北海道洞爺へ面接に向かいました。ちょうどシェフ・ソムリエを探していたということと、フランスの田舎の様に、地方の豊かな食資源や魅力に恵まれた場所でのやりがいを感じ、北の大地へ渡ることを決心しました。

北海道からライオールへ
ザ・ウィンザーホテル洞爺での就職が決まってから、これまでフランスでお世話になった方々に挨拶に向かいました。売却せずにフランスの倉庫にしまっておいたオンボロの愛車、プジョー205に乗り、ブルゴーニュからライオールを目指しました。晩秋の山道は途中、雪道へと変わり、ノーマルタイヤで中央台地を超えて辿り着いた翌日、ミシェル、セバスチャン、シェフ・ソムリエのセルジオに会うことができました。ライオールのあるオーブラック地方は不思議なことに、大地が空に漂っているかの様に感じる場所です。村の高台にあるレストランの窓から丘陵を見下ろすと、大地に光と陰が交差し、ザ・ウィンザーホテル洞爺からの風景と重なります。周囲を散策すると、玄武岩の岩場から涌き出す水の流れや、荒涼とした大地に牛達の群れが連なって、文明から遮断されたかのような風景の中で素朴な風に触れることができます。自然と、音や色や芳香への感覚が研ぎ澄まされ、ミシェルがライオールの大地から多くのインスピレーションを得ていることを実感しました。
メゾンブラスを象徴する一品である若芽のガルグイユーは、厳しい環境下で生き抜く植物の生命力がテーマとなっています。もともとはハムや野菜を使った地方料理でしたが、幼少の時から影響を受けた母の料理や、オーブラックの花や野菜、ハーブ等の素材、更にミシェル独自の考え方が加わって誕生しました。ソムリエは何よりもお客様にワインや料理をおいしく味わって頂くことが大切ですが、そのためにはその土地を愛し、料理人の思想や歴史を共有してゆくことが重要です。2016年にはミシェル・ブラスが世界のベストシェフのトップにも選ばれましたが、その時、私はライオールの大地を踏みしめながら、世界で唯一の支店を北海道洞爺に出したことへの思いを日本人の立場から共有したいと思いました。

ミシェル・ブラストーヤジャポンのシェフ・ソムリエとして
こうして36歳の私は、第二の故郷フランスで学んだ長い修業時代を経て、ミシェル・ブラストーヤジャポンのシェフ・ソムリエとして勤務することになりました。そのことは、ソムリエとして食と観光の結びつきを追求する立場から、地域農業を守るためにできることはないか、と考えるきっかけとなりました。先輩達が築き上げてきたワインセラーには600種類、12000本のワインが常時保管されています。ワインと料理のマリアージュでは、味覚同士の相性のみならず、ワイン生産者とシェフの各々が求めている要素との相性も目指しました。その上で、シグネチャーデッシュであるガルグイユーと調和できるワインのスタイルは、常にマリアージュの原点として位置づけました。ミシェル・ブラストーヤジャポンのガルグイユーは本店と同じエスプリでありながら、洞爺の自然環境の表現があり、ライオール同様、一皿の上に“光と陰”や“静と動”が表現されています。ミシェル自身が、「洞爺とライオールは瓜二つである」と考えることができる場所が、文化も歴史も全く異なる東洋と西洋の隔たりを超えて存在していることは奇跡的なことだと思いますが、私はフランスでの修業時代同様、美食界にはなくてはならない名店のソムリエとして、北海道の地で働くという至上の喜びを感じました。また、ミシェル・ブラスは家族的なコミュニティを大切にしており、スタッフ間同士でも苗字を使わず、ファーストネームで呼び合います。毎年11月に催されるブラスフェアーでは、本店スタッフが洞爺に来て集いの場が生まれます。現在、日本各地で活躍しているブラス出身者の間でもこのファミリー意識の和をとても大切にしており、この繋がりがもたらす連携と進化は、現在の日本のフレンチガストロノミー界に多大な影響を与えていると感じています。

新たな出会い
フランスから洞爺に来て、更なる出会いがありました。ひとつは発展を続ける道産ワインとの出会いです。そのきっかけとなったのが余市産のケルナーで、コストパフォーマンスと酒質の高さはセンセーショナルな驚きでした。アルザスでソムリエとして働いていた時、リースリングはガストロノミーに何といっても必要不可欠な存在でした。ケルナーにはアルザスのリースリングに共通する要素があり、この品種が存在する限り北海道のワイン産地の将来は明るいと実感しました。このことはのちに、私がケルナーでワインつくりを目指す大きなきっかけとなりました。もうひとつは北海道出身の妻との出会いでした。そしてもう一度、ワイン産地として成立する場で、生産者の一人として挑戦したいと思うようになり、結婚を機にミシェル・ブラストーヤジャポンを退職しました。家庭面では翌年、2012年に元気な双子の男の子が誕生しました。

北海道でのワイン造りに挑戦して
私に北海道の扉を開いてくれたミシェル・ブラストーヤジャポン、余市産ケルナーや妻との出会いを経て、私の心は一旦終わった筈であったワイン造りの現場に戻り、北海道で生産者として挑戦するという道に進むことになりました。その土地からテロワールの味わいを生み出せるかどうかは、つくり出す人の見極め方や考え方次第であり、そこには料理もワイン造りの現場にも共通している要素があると思います。料理界の名店でのソムリエ勤務を経て、寒冷地のブドウ産地から、美食に寄り添えるワイン造りを目指すという目標に辿り着きました。ブラス本店のテーブルに似合うワインの創造を究極の目標として、北海道でしかできない産地個性と風土の表現を追求することにしました。

投稿日:11:39 AM | カテゴリー: ストーリー